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2006年3月28日 (火)

楽器のこと(その2)

それからはひたすら自分の求める音の追及が始まりますが、G&L買う時にも協力してもらった例の山田君のアドバイスもあり田無の名リペアマンO氏の元に所有ギターを次々持ち込みます。先述のFG-160もこの人のリペアで生き返りました。
何よりの収穫は楽器の良し悪しの話が聞けたことやO氏がセレクトし調整した中古楽器の試奏が出来たことです。O氏曰く「名器といわれる楽器は確かに良い。しかし需要と供給の関係でやがて量産されて品質が落ちる。いくらいい材料を使っていても採算をあわすために最終調整で手を抜いてるものが多い。残念だが今メーカーで復刻されている往年の名器は殆どが取るに足らない代物。」だと。また、最近のビルダーはいろいろ凝りすぎて見失ってることが多いとも。彼の口から本物とは何か、良い状態とはどういうものかを学び、多くのギターを弾かせて頂いた小生は真剣に探している音と向き合います。結論は世界最初の量産型ソリッドエレクトリックギター「フェンダーテレキャスター」(以下「テレ」)でした。
それからは都内をはじめ機会あるごとにあちこちの楽器屋を探し、あれば試奏する日々が始まります。しかしビンテージものは信じられないほど値段が高い!元値はたぶん10~20万円だったと思うのですが、100万近くはざらで中には200万というものもあります。パーツは半ば腐っており傷や塗装剥げがあるにも関わらずですよ!たとえいい音が出ようとこの先何年もつか分からんものにこんな投資は出来ません。(余談ですが、日本に次々ビンテージ物が持ち込まれているようです。アメリカやイギリスではこんな大金出して買う一般人はあまりいないようで。)

まあいろいろさわったおかげでテレが年代ごとでいろんなキャラクターを持っていることが分かり、たぶん自分の探してるのはもっとも初期の「ブロードキャスター」であることが想像されました(本物は見たこともないので想像です)。
こりゃ絶対無理だなとあきらめかけてた頃に気まぐれに立ち寄った御殿場のバナナムーンという楽器屋さんで店長と話し込むうちにその人がブロードキャスターの復元を模索している事が分かったのです。ショップブランド「ジーニアス」というパーツ組立方式のオーダーメイドギターをやっていて、すぐにこれに飛びつきました。そして何度かのディスカッションのうち本物はたぶんこんな作りでこんな音であろうというテレが仕上がりました。総費用は18万円。これは今までで最高の買物でした(こんな夢みたいな楽器屋さんだったので残念ながらクローズとなりましたが…)。
あれから5年くらい経ちますが、どんどん鳴ってきています。良い物は年代を経てどんどん良くなってゆく。小生が自分で作ってゆくビンテージです。

これでもう何もいらなくなったって?いえいえ、今度はアルト・フルートがアルトいい。お粗末。

2006年3月26日 (日)

楽器のこと

以前の記事に「楽器は表現のための道具」と書きましたが、最近ますますそう感じます。以前は誰某の使っている何々という楽器を持てばあんな音が出るというのが楽器への憧憬でしたが、今はそんなものはアイドルと同じ格好をしてアイドルに近づいたと感じることと同じだと思ってます。
まあ、とはいってもいろんな楽器を手に入れるのは確かにコレクションとしては面白いです。今や小生の所有するものは最小限となってしまいましたが、ここに至るまでの楽器遍歴を記してみます。

初めて手にした楽器はトーカイだがゼンオンだかのガットギターで、兄から譲り受けました。まあ定番のパターンでFのコードが押さえられなくて一旦諦めましたが、これは楽器のせいであると親にせびり誕生日にヤマハのフォークギターFG-160を買ってもらいました。これは今も現役でご活躍です。名器の誉れ!。次に入手したのが当時ではやはり定番のエレキ、モズライトモデル(中古、モラレス製、エーストーン15Wアンプ同時購入。遺憾!歳がばれる)でこれは分解改造を繰り返しこの世から姿を消しました。小生のその後の楽器改造のプロトタイプとなった代物でした。合掌。その次が同級生が空地で拾ってきて五百円で売りつけられた(売るなよ…)グヤトーンのジャガーベース(?)で、これはおもいっきりロックな音がしてました。ただネックがWベースなみで使いこなせず誰かに売りました(売るなよ…)。最近聞いた話だとこれはかなりのレア物で今買うとウン万円らしいです。その次がフェンダーストラトキャスター、いきなり本家本元ですが、当時はビックリするほど高いものじゃなかったんです。いわゆる70年代物で、いい音してましたが低品質でした。で、いずれ手放すことに。次に手に入れたのは学研の科学だか学習だかの付録のプラスティック横笛。吹けないからとのことで弟から譲り受けましたが、小生は吹けた。「俺は天性のフルート吹きかも」と勘違いし1~2年後本物を買うことになります。

ここら辺りからコレクターの域に入り、せっせとバイトに精を出し次々にいろんな楽器を手に入れます。順番も今となってはわかりませんが、ヤマハFシリーズアンプに始まり、フェンダーツインリバーブ、GABANのレスポールモデル、ポリトーンブルートアンプ、ヤマハセミアコSA-750、ヤマハのスチューデントモデルのフルート、フェルナンデスのベース、エフェクター多数。そしてプロフィールにありましたようにサックスに手を出します。当時はギターブームで雨後の筍の如くギタリストが発生しまして小生などはお呼びがかからない状況になり、フルートをやっていたこともありヤマハのアルト・サックスYAS-61(?)を入手しました。不思議なことに物珍しいのか、あちこちから声がかかりろくに吹けないくせにいっぱしのジャズミュージシャン気取り。人数合わせの類の水商売の演奏なんかもやり、結構な稼ぎとなりました。それを元手に村松フルート、仏セルマーソプラノサックスを入手します。これらは現在もメインの楽器です。この頃に求めている音が出せる楽器が入手できたのは本当に幸運だったと思います。プロになるため東京に出るにあたり今までの楽器を整理処分し、新たに仏セルマーのアルトサックス「マーク6」や米セルマーテナーサックス「マーク7」を入手しますが、本物を持っても偽者が吹いたら偽物ということを後に痛感するわけで、今はもう手元にありません。そして時代の波に乗るためMIDI関連機器にも手を出します。もうこれは凄まじい量の機材が出たり入ったりでこの時期の説明はまたの機会に。

プロを諦めた小生は機材メンテナンスで時間を潰す音楽廃人となってしまいますが、一念発起し久々にギターを買います。タカミネのエレガット、暫く間をおいてG&Lレガシー(USA)。G&Lはフェンダーが生涯最後に作ったメーカーでいい楽器なんですが品質は今一、ただ小生も改造の腕を上げていたのでグレードアップに成功!タカミネとともに今もメインです。それからいよいよ運命の左上写真のテレキャスターとの出会いがやってきます。以下次回!

2006年3月21日 (火)

ブルースのこと

現在の日本でブルースと聞いたら大部分の人は黒人がやってるデルタブルースやシカゴブルースを思い浮かべるでしょう。ちょっと古い人なら歌謡曲のタイトルだろうし、ダンスの人はスローテンポの3連系の曲、Jazzやってる人とかで音楽理論かじってる人ならブルーノートを使った12小節の形式の曲というでしょう。こういう風に日本では概念が多様で環境や時代で変化してゆきます。JazzとかC&Wもそうだし、まあ業界が売りやすくするため分類するんでしょうから当たり前なんですが、じゃあ小生がやってるブルースとは?と聞かれたら「それはブルーススピリットのある音楽です。」と答えることにしています。そんな漠然とした説明だとなんだか分からんという人もいるでしょうからこの場を借りて解説します。

小生の知る限りではいわゆるアメリカ南部の奴隷が歌っていた賛美歌や聖歌が黒人独特の節回しとリズムの取り方でゴスペルと呼ばれ、もっとくだけた労働歌の類がブルースになり、奴隷解放で仕事を求めてアメリカのあちこちに黒人が散らばってJazzやR&Bに発展して、R&BはやがてソウルとなりFunkに発展、かたやC&Wと融合し白人中心のセールスとなったのがR&R、イギリスにブルースブームが起きてそれを取り入れた連中がRockを作ったということ。

どうですか?現代のアメリカ中心の商業音楽のルーツは殆どブルースなんです。で、これでは分類できないから音楽理論上メロディや形式を決めた。でもブルーノートなんてのはコブシの類で五線譜に当てはめるなんてのは所詮無理な話なのです。小節数も弾語りのブルースシンガーはやる度に違ったりもしてるし。でもどのジャンルにおいても何となく分かりませんか?ハートに響くブルージーな感覚。悲しく熱く力強く、感動を生む魂。それがブルーススピリットです。「おまえの理屈で云えばあらゆるジャンルで感動を呼ぶものは全部ブルースってことになるぞ!」という声が聞こえてきそうですが「そのとおり」なんです。ジャンルなんてのは元々音楽家一人一人にあるもんであって、それがたまたまどんな人に影響受けたか、弾いている楽器は何か、楽団の編成はどうか、リズムは主にどの形式か等等で似た物を一括りにして陳列しやすいように分類したものなんです。

だから、小生がイメージするブルースとLIVEに来ていただいたお客さんのとはたぶんギャップがあるんだと思います。確かにシカゴブルースのナンバーなんかもありますから、時々「なんでもっとブルースやらないんだ」なんて云われます。小生の世界ではやってるんですけど・・・。もろブルースな曲は歌詞の凄いのが多くて入り込めないんですよね。環境が違いすぎる。まあ、めげずに自分のルーツとなってるブルースな新曲準備してます。友部正人「一本道」とかL.ラッセル「ソングフォーユー」とかD.パープルの曲とかビリー・ホリディの曲とかね。これらがDDTというミキサーにかかった時どうなるかは乞うご期待と言うことで。

2006年3月16日 (木)

KEIさんは

小生の小学校の同級生の女性でした。ということは、図らずも先の記事に書いてた希望がかなったわけです。嬉しいな。で、山田君にも繋がったし良かったな。今後の展開が楽しみです。

2006年3月14日 (火)

DDTライブ!

来る4月30日(日)渋谷BlueHeatにてLiveがあります。皆様万障繰り合わせのうえお越しください。

【LIVE NIGHT】(7:30p.m.OPEN. LIVE CHARGE\1000)
D.D.T /
児玉貴雄vo,g, 安川徹g, 坂本康介b, 宮岡千俊dr. 

お店の場所は右下のLinkをご参照。

今度は小生のルーツミュージックやります。お楽しみにね。

2006年3月12日 (日)

ガレージの卓球台!

Keiさんいらっしゃいませ。コメントありがとうございます。

さて、どなたでしたでしょうか?コメント出だしで誰か音楽仲間の悪戯かな?なんて思ってましたけど、卓球台の件で、こりゃ小生のコアな過去を知る人だと分かり驚愕しております。これを知る音楽仲間は今となってはプロデュース業を営む山田君くらいしかいないわけで、他の誰かが思い出せません。

まあ、そんなシリアスな話ではないですけどね。たかが卓球台で(笑)。御影小学校~中学校の同級生の方でご近所さんならたいてい知っとるでしょうけど。シャッター開けっ放しでピンポンやってたからね。ヒント出してください。それと出来ましたらKeiさんのお住まいや近況など書いていただければありがたいです。

小生は当時、家庭用コンパクト収納タイプの卓球台で毎日ピンポンに精を出し、目出度く卓球部に入部しましたが、先輩のシゴキに耐え切れず、また、毎日素振りしている自分の姿が情けなくなりこれまた目出度く退部し、もう一方の趣味であった音楽に本格的にのめりこんだのです。このあたりは大槻ケンヂ氏の著作に共鳴する部分が多々あります。友達の大ちゃん家に入り浸りだったり、Jazz喫茶や名画館にせっせと通ったりね。ありゃなんか自分から過去を暴露してきたのでここら辺で。

文中固有名詞がいくつか出ましたので私が何者か確信されたかと思います。それではまた、よろしく。

2006年3月 8日 (水)

山上進さんとの出会い

それでは小生の音楽に対するスタンスを180度変えた山上進さんについてお話します。

前回紹介しましたドラマー浜田康一氏が青森出身であったことから小生20代後半にねぶた祭りに招かれました。浜田氏曰く、「世界に対し日本の民族音楽と呼べる物はねぶただ。」と、「友人の青森土着のアーティストを紹介したい。」という言葉にひかれ彼の実家へ向かったのです。
到着した夜、件のねぶたプレイヤーが宴席に現れました。浜田氏の紹介によれば彼の古い友人で、なんと矢野顕子のファーストアルバムでねぶた笛を吹いていた人とのことです。
その人山上君は、当時矢野顕子に東京に誘われたそうですが、「自分は青森の音楽をやりたいから」と断り、その後青森でねぶた笛はもちろん津軽三味線、尺八をプレイし定期的にライブハウスで活動しているらしいです。
ここまで聞いて小生は正直ちょっとできすぎてるインチキ臭い話と感じていました。
しかし宴たけなわとなり、浜田氏の父親から私らミュージシャンに1曲やってくれとのリクエストに応え、山上君がギターを手にした時その疑いは晴れました。
浜田氏の紹介では凄いギタリストということで、嫌がる山上君にギターを弾かせましたが、彼は手にするや、まるでジョー・パスのごときソロギターを弾きだしたのです。
エンディング後私は思わず「なんでそれだけ弾けるのにギターメインでやらんのか!」とナンセンスな質問をしてしまいましたが、彼は「わは(青森弁:私は)コピーじゃなく自分の音楽をやりたいから」と答えました。
その後、感動した一同は山上君に三味線のリクエストをし、彼もそれに応え弾き始めました。
正直未だに津軽三味線の良さが分からないのですが(山上君ごめん)、とにかく私にはギターがあれほどうまいのになんで?という気持ちが混じり感動かなんか分からないけど、とにかくえらい人に会ってしまったって感じでした。

その日以来青森滞在中、山上君はずっと私らと行動を共にしてくれました。
彼の当時の仕事は空調屋さんで、なんでも青森では空調屋は冬の仕事中心で、ねぶたの時期は休暇みたいなもんらしいです。
ちなみに普段の彼は穏やかな田舎の青年といった印象で、あんな炎のような演奏をする人にはとうてい思えませんでした。
そして、やはり彼の本質は夜のねぶた祭りに見ることができました。
小生も浜田氏の両親の好意によりねぶたの衣装を着て踊ることができ、山上君のライブを目の当たりにすることができましたが、私の印象ではねぶたはリオのカーニバル、笛ふきはグループリーダーって感じで、踊りながら吹き手の山上君と目があった時凄い良いグルーブを感じてしまいました。
青森滞在最後の日、浜田氏と山上君の手配で貸しスタジオでセッションが行われました。小生の担当はベースです。
山上君はねぶた笛・三味線・尺八を駆使し、リズムはレゲ、8、16と浜田氏と私ともう一人東京からのギタープレイヤーでクリエイトし、一種の異種格闘技みたいなセッションが繰り広げられました。
今その時のテープを聴くとそれがどないしたんやって感じですけど、小生にとっては初めて自分の範疇外の音楽を真剣にやったって印象です。
日本の音楽やったのに外国のをやったみたいな、実は自分は中途半端なアメリカ人やないのか?そんな感じで、だけど全て満足でした。
帰りは函館から一人飛行機で帰京でしたが青函連絡船のデッキの上で小生は大げさなようですが生まれて初めて「ああもうこれでいつ死んでもいい。」と感じてしまったのです。

一昨年東北に旅をしたときJR東日本の広報誌に津軽三味線の記事があり、しょっぱなから山上進氏の紹介が写真入でありました。小さな居酒屋で畳一畳ほどの座敷スペースでライブをやっているとのこと。懐かしさとともにアーティストを感じました。(その後函館朝市の食堂に行った時にも壁の写真に三上寛氏と写ってたっけ。)

山上氏との出会いは小生の心の中の、音楽のジャンル分けを完全に無くしてくれました。それから心の中の何かを表現するのに楽器は道具にすぎず、表現のためにはいつどんな楽器を選択してもノープロブレムってことも。あの日から小生は自由になりましたが、如何せん表現に山上君のねぶたのような太い柱がありません。だからまだ探しています。見つかったらもう一度一緒に演奏してください。ぜひよろしく。

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